散骨に関する迷信
散骨すると成仏できないと聞いたことがありませんか?
「散骨という遺骨を粉骨にしてバラバラにして撒くという行為は、その故人の魂もバラバラにされて成仏ができなくなるのでは」という意見が稀にあります。
成仏とは、文字通り「仏に成る」ことです。
仏教の開祖である「釈迦」が、悟りを開いて「ブッダ」となり、煩悩を断つことで苦しみから解放されたことが起源とされています。
散骨とは成仏できない葬法なのでしょうか。
また成仏の起源である仏教、仏教の開祖である釈迦についても解説していきます。
仏教思想~人生とは苦
仏教とは2500年ほど前に、釈迦を開祖として生まれた宗教です。
仏教は、因果応報や輪廻転生を教える点においてヒンドゥー教と同じところがあります。
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そして仏教における最大の教えとは「人生において目指すべきことは悟りに到達する」ことです。
仏教では、人生における「苦」は避けられないものとされています。
ちなみに太宰治の「斜陽」で、「幸せとは、不幸という名の川底に、きらりと光る砂金のようなもの」とありましたが、まったく同感です。
人生は本来苦しみなのです。
しかし真理を体現し、苦しみから解放されることを「悟り」と言います。
また今日の仏教には、大乗と小乗という、二大流派があります。
大乗、小乗の「乗」とは乗り物のことで、悟りの境地に至る手段として、どのような方法をとるかという違いを意味しています。
大乗仏教とは、釈迦をはじめとする如来や菩薩も信仰し、悟りを開くことは自分だけではなく、多くの人々を救済するためのものであるという思想です。
ある意味、みんな「大丈夫っ教」ですね。
また現在日本で私たちが信仰しているのは、ほとんどが大乗仏教であります。
一説によると、より広く世間に受け入れられるようにするために、元々の仏教から派生する形で大乗仏教が生まれたと言われています。
反対に小乗仏教は、従来の仏教思想に基づき、釈迦の戒律を守り、自分自身のために悟りを開くこととされています。
釈迦の教え~悟りと四法印
仏教の開祖である釈迦は、インドの北部(現在のネパール)の釈迦族の王族として生まれました。
何一つ不自由なく過ごしてきた釈迦ですが「人々を苦しめている根本的な原因は何か」「苦しみから解放されるにはどうすれば良いのか」「どうやって生きたら幸せになれるか」ということをずっと考えていました。
そして、その解決方法を求め、王族としての立場や地位などの全てのものを捨てて、修行をすることを決めました。
しかし過酷な修行に励んでも、苦しみを解決することはできませんでした。
苦行を止めた釈迦は、菩提樹の下で瞑想することにしました。
その時、「苦しみから解き放たれた悟りの境地」に達し、ブッダになったとされています。
ブッダとは「悟った人」「真理に目覚めた人」という意味があります。
釈迦が悟った教えのひとつとして、以下の「四法印」と呼ばれているものがあります。
・一切皆苦(いっさいかいく)
「すべては苦である」という意味です。私たちが人生において、避けられない苦しみや困難のことです。仏教では生死、老い、病みという人生において逃れられないものは、すべて苦の体験として捉えられています。
・諸行無常(しょぎょうむじょう)
皆さんご存知かと思います。全ての現象は常ではないということです。あらゆる物事は常に変化し続けているものでり、変わらないものはありません。
変化を繰り返し、同じ状態のものは何もありません。
しかし、人はお金や地位、名誉、人間関係、そして自分の肉体までも、このまま変わらずあって欲しいと思うこともあります。
そしてその思いは「執着」へと繋がり、苦しみに囚われてしまいます。
しかし必ずかたちを変えながら消え去っていきます。
・諸法無我(しょほうむが)
四法印の中で、私は諸法無我はとても大事なことだと思っています。
あらゆる観念は自分ではないということです。
諸法とは森羅万象全てのことで、無我は我が無いということです。
例えば、私たちは常に空気を吸っています。無自覚で空気吸っていますよね。吸っていることを忘れても吸っています。ということは、空気を吸ってるのは自分ではないということになります。実際には「私たちを生かしてるもの」が吸っているのです。
それはある意味、大自然であり、私たちを生かしている全体の力です。
水が無ければ死ぬ、大地がなかったら立ってもいられません。
また細胞にも似ているかもしれません。細胞も隣や全体との関係の中で存在しています。でも一つ一つは単独であり、それぞれに生きています。
私たちも他との関係、全体との関係の中で存在していて単独では存在できません。
そのため「私」という単独のものは存在していないことになります。
それが諸法無我です。
・涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)
釈迦は「生きることは苦に満ちている。それは抗えない真実である。だから生きることが苦しいのは当たり前ともいえる」と説いています。
釈迦が説いた有名な「四苦八苦」の中に「求不得苦(ぐふとくく)」「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」というものがあります。
これは、人が人であるが故に苦しむという、私たちの日常に浸透している苦しみのことです。
そして涅槃寂静とは、生死を超えた永遠の平和な状態のことです。
生とは、苦しみの世界に誕生するとことで、死とはその世界からの解放です。生を通して、辿り着く先は死でしかありません。
人生とは死に向かうことなのです。
死を見つめることで、生の意味を深めていくのでないでしょうか。
釈迦が悟ったこととは、「生きながらにして死ぬこと」であり、意識的な死の体験です。
そしてそれは私たちの想像を超える祝福であります。
仏教の根幹は「無我」ということもあり、結局釈迦が言いたかったことは「私という主体的な自己はいない」ということなのかと思います。
そして釈迦の教えは、経験することはできても知ることはできません。
ソクラテスが「私が知っていることはただ一つ、それは私が何も知らないということだけだ」と言ったのはこのことです。
しかしソクラテスのように、自分が何も知らないということをはっきりと言えることは、真実を生きているからなのです。
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成仏の意味
成仏とは「仏に成る」、それは煩悩が消えて悟りを開いた状態のことです。
そして悟りとは、自分が幻想の世界で生きていたということを自覚することです。
人生でお金や成功、名誉、快楽、安心などの欲を求めていたことへの気づきでもあります。
個人的な意見ですが、悟りとは「欲を悔い改めること」でもあると思います。
その愚かさや愚かさとして見ること、それが悔い改めではないでしょうか。
そして悔い改めた瞬間、過去が浄化されます。
過去とは積み重ねた「負の記憶」「未完了な行為の記憶」だからです。過去が消えた瞬間、未来も消え失せます。未来とは「満たされなかった過去を満たしたい」という欲求だからです。
また仏という字は「ほとけ」と読めます。「ほとけ」の語源は「放解け」とされています。それは「解放される」ということです。
成仏とは、人が執着や苦しみから解放されることであります。
ちなみに、釈迦が説いた四苦八苦の、四苦4×9=36、八苦8×9=72、それらを合計して36+72=108となり、これが煩悩の数といわれています。その煩悩を除くことを願って、除夜の鐘は108回鳴らしますよね。
仏教からみた散骨
このように成仏の意味を知ると、「散骨すると成仏できない」ということは、全く根拠のないことがわかります。散骨と成仏することは全く関係がないからです。あくまで個人の受け取り方次第です。
また釈迦は「死後の肉体に拘らない」ことも説いています。
しかし実際は「ストゥーパ」と呼ばれる、釈迦のお墓のような施設が数多く建造されています。また自分の葬儀をする時間があるのなら、自らの修行をするようにと遺言したそうです。
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今の日本における葬儀や法要などのあり方は、元々の純粋な仏教ではなく、神道、道教、儒教などの要素も反映されています。また同じ仏教でありながらも、宗派によっては死生観も違います。
仏教は釈迦の説いた教えですが、日本では色々なものを取り込まれた結果として、今のかたちがあるのです。
また人口の約95%が仏教徒と言われるタイでは、遺体を火葬し川や海に散骨するのが一般的です。「人間は水、土、空気、火という4要素から成り、人が亡くなるとそれぞれの要素に戻る」「死は死であり、遺体や遺骨に固執せずに解き放つ」という仏教の教えもあります。
故人を自然に還すことは人間本来の供養のかたちでもあります。
散骨によって自然に抱かれ、またその世界の中に悟りの境地を求め、安らかな往生を願ってみるのはいかがでしょうか。